神社の詳細

『神社の歴史』

伝えられるところでは、都が平安京(京都)に移されたころ、伊勢の国から内宮と外宮の神が勧請されたというが、史料(書き記された記録)によりますと、「康富記-やすとみき」
(公家中原康富の日記)の嘉吉2年(1442年)9月27日のところに、「参詣宇治神明」とあり、その翌日の記事に、「宇治より上洛(京都へ行くこと)のところ、木幡にて庭田少将などの神明参りに行き会った。お共するようにと言われるので、また後戻りして神明にお参りした」と書かれているが、この神社があったことを証明する最も古い記録であります。
しかし、「看聞御記(かんもんぎょき)」(伏見宮貞成親王の日記-ふしみのみやさだふさしんのう)の応永23年(1416年)7月26日の部分に、「京都の下(しも-南の方角)に住んでいる男が、宇治の今伊勢へ参詣したところ、社頭(しゃとう-神社の前)のあたりに白いヘビがいた」という記事があります。
この「宇治の今伊勢」は、当神社のことであると考えられますから、15世紀の初期か、またはそれよりも古くから、伊勢の御師(おし-伊勢神宮への信仰を広めるために全国へ出歩いた神宮関係の信仰指導者)によって、ここに伊勢の神が祭りはじめられたものと考えられます。(神明神社御由緒略記より)

年中祭事

毎月  
1日 月次祭
1月  
1日 元旦祭
15日 左義長
2月  
3日 節分祭
7月  
15日 弁天祭
10月  
第2日曜日 大祭
12月  
16日 お火焚祭

内宮・お社
外宮・拝所
外宮・お社
末社
厳島神社
羽拍子神社

由緒等:
当社は、白鳳三年四月(674)天武天皇の詔により、栗子山に神殿を造営、市杵嶋比売命を祭神として神明神社と称えられたのが起源とされる。
桓武天皇延暦十三年(794)都を平安京に遷され、当地が都の巽に当たるので伊勢皇大神宮を勧請この地を宇治と号し屡々行幸された。その後延喜四年(904)醍醐天皇の詔により新たに社殿を造営、伊勢内・外皇大神宮及び雨宮・風宮。稲倉魂命の御分霊を祭り歴代天皇が行幸されたが、南北朝の争い等により社殿は大破する等したので、康和元年四月(1099)に現在地の洛南の景勝地であった神明山に移されたが、たび重なる兵乱により神領は減少し現代に及んでいる。
境内には、宇治市名木のしゃしゃんぼ及び椎の大木が昔の名残を止めている。また、山崎の合戦に敗れた明智光秀が山階に逃れる途次隠れたと言伝えのある古井戸を藻隱池と称し現存している。
≪神社案内板「由緒書」より≫
まつり:
1月 1日 歳旦祭 10月 10日 例祭 [通称]秋季例大祭 12月 16日 火焚祭
御祭神:
内宮 天照大神(あまてらすおおかみ) 豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと) 手力雄命(たぢからおのみこと) 外宮 豊受大神(とようけのおおかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 天太玉主命(あめのふとたまぬしのみこと) 末社 厳島神社 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと) 八社 結社 高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ) 神皇産霊大神(かみむすびのおおかみ) 住吉社 表筒男命(うわつつおのみこと) 中筒男命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと) 蛭子社 言代主命(ことしろぬしのみこと) 風宮・雨宮 級長戸辺命(しいなとべのみこと) 級長津彦命(しいなつひこのみこと) 天満宮 菅原道真(すがわらのみちざね) 稲荷社 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 春日社 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 猿田彦社 猿田彦命(さるたひこのみこと) 境内神社 羽拍子神社 天照大神(あまてらすおおかみ) 級長津彦命(しいなつひこのみこと) 級長津姫命(しいなつひめのみこと)
⑫巫女舞い(神楽殿にて)
大祭のときに神楽殿にて少女たちによる巫女舞いが奉納されます。
⑬神明神社縁の狂言
 「栗隈(くりこの)神明」の舞台
松の太郎(役)-茂山 千之 妻(役)-茂山 千三郎
平成25年9月21日 神明神社

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